昭和50年12月31日 除夜祭
中村良一
昭和五十年のお年柄も、いよいよ、今日をもって終らせていただき、新たな五十一年度を迎えさせて頂く訳であります。五十年というお年は、大変な節年であると思いますが、私にとりましても、まぁ大変な、節の年であったと思います。教えの親であるところの、親教会長先生が亡くなられ、また、私の母が亡くなり。まぁ親を失うというほどしの年ですから、大変な年でございます。けれども、おかげを頂いて、かつがつながらも、そこを元気に、または有難く頂き抜かせていただいて、来年こそは、いよいよ、この節から芽が出る年だという風に心得させて頂いております。
今朝から、末永先生にお願いして、今年、五十年、いわゆる、この十二ヶ月間の間に、私が、お取次ぎをさせて頂きました、参拝、お届け数を、全部調べて貰いましたが。何と、あれだけ沢山のお届け帳が、今年一年、ね。あれは二段にこう積んであります。そこの一番前に、玉串の前にしてある訳です。あの厚いお届け帳が、あれだけの沢山の人のお届けをさせて頂いております。今朝までに、二十七万三千名でございました。はぁしかし、まぁ本当に有難いことだなと思い。そら、間違うとりゃせんのと言うてから、それから、久富さん、毎日のお初穂の整理をなさいますから、月々、幾ら幾らという累計が出ておりますので。それを比較対照いたしますと、んにゃ、こら間違いではない、やっぱり、二十七万三千という事になります。今日、まぁ千名余りのお届けをさせて頂いておりますから、二十七万四千名という、沢山な数の人が、お広前にお引き寄せを頂いて、おかげを蒙っております。これが、例えば、有名な神社仏閣であるとか。いうなら、参拝やら、見物やら分からんといったような人達でのことではなく。その一人ひとりが、広大無辺のおかげに浴して、お願いに参り、お礼に参っておる数であります。しかし、有難い事だなぁ。この田舎の、いわゆる田園教会である、合楽教会に、これだけの人がおかげを頂いておるということは。本当に、神様に対して、もうお礼を申し上げても、お礼を申し上げても、尽きぬ有難さを感じるわけでございます。しかも、今年、私にとって、そういう年柄であったにも関わりませず、おかげを頂いて、一日の御結界が空くこともなく、おかげを蒙ってきております。
今日、午後の、何時も三時半から、最近、修行生、ここに全部集まって、朝の御理解の研修を致します。その中で、一人ひとりが、朝の御理解をどう頂き止めたかと、また、判らないところがあったかという研修を、まぁ日々、させて頂いておるのでございますけれども。なかで、末永先生が、こういう様な事を言っております。まぁ今日の御理解を頂いて、こう感じたと言うのです。それこそ、歌の文句ではないですけれども、立てばシャクヤク、座れば牡丹というが、いよいよ、御道の取次ぎ者として、いよいよ、座れば牡丹、立てばシャクヤクという様な、いわば、そういう理想的な御道の教師としてのおかげを頂かねばならんという事を申しております。これは、取次ぎ者だけの事ではありません。お互いも、やはり、ね。お参りをしておる時だけではない。お広前だけの時ではない。やはり、家に帰らせて頂きましても、いわゆる、普通の生活に入らせて頂きましても、やはり、信心させて頂く者の有難さが、その生活の中に、にじみ出ておるようなおかげを頂かなければならんのでございますけれども。なかなか、そうは問屋が卸さない。
今日も、その時に、先生、毎朝の、朝の御祈念に、親先生が四時から五時までの御祈念、ここで、一緒に御祈念をさせて頂くんですけれども。どんなに眠るまい眠るまいと思うておっても、やはり眠ってしまっておる。ここが、暖房が入って、暖かになりますから、それで、自然、眠気を催すのでございましょうから。明日からは、この外側で、先生の御祈念を頂きたいと思いますが、ね。これもやっぱり、表行になりましょうかと。ん、それもなかなか、ええ考えだなと。けれども、最近、合楽では、その表行という事、形の上での行という事が、全廃になりました。してはならない。
昨日の研修会の時も、そうでしたけれども。昨日の晩、私は、十二時ごろ、必ず、ここへ出てきてお礼を申させて貰います。必ず、こう部屋も開けてきます。そこの事務所に、誰かが寝ておりますもん。こっちのほうで電気をつけたら、何と栄四郎が寝ておる訳です。この頃からも、あのテレビ室で、ソファの上で、ころっと寝ております。まぁ自分としては、この寒い寒中に、布団毛布一枚着らずに、一晩を、いわば、そういう修行をさせて頂こうと言う、その意欲は大変有難いのですけれども、ね。これは、やはり、表行だと。何時から、それを言おう言おうと思うておったが。今日は、あんたがそれを続けるごたるならば、幾ら親でも子でも、結局、破門にしなければならない。今、合楽では、表行という事を、そんなに厳しく言っておるのです。
例えて言うならば、ね。○○教会、○○教会、それこそ、血のにじむような。今日も、私は、御道のご本を読ませて頂いておりましたら、ある教会の、七十年の記念祭の事が出ておりました。それこそ、断崖絶壁という様なところの岩に、平たい岩の上に座って、そして、そこの初代が、水ごりをとりがら、その岩の上で、御祈念をし通された。そこには、先代修行の地と立て札が立っておるという事でございました。そこで、二代、三代と、その教会が続いておりますけれども、沢山の人が助かったと言うことを聞いた事もない。また、大した教会でもなさそうな。なるほど、そういうような修行を致します時に、いよいよ、神を信ずる力と言うものは、これから湧いてくるです、不思議です。断食をしたりね、それから、水をかぶったりして、一生懸命、神様に打ち向かうという様な事をすると、確かに、神様を信ずる力は生まれてまいりますから、ね。いわゆる、神は、信ずるものを信ずると仰せられます様にです。そこに、奇跡が起こったり、言うならば、その方が、神を信じた先生が取次ぎをするのですから。いわば、不思議なおかげも、一時は輝きますけれども、それは、雲のような御比礼であって。夏、ちょうど、入道雲が出ます様なね。いかにもこう、モリモリとした様ですけれども、あっという間に、消えて行くように、そういう修行をやめた途端に、神様を信ずる力もなくなって来ると同時に、人が助からなくなってくるという事実があるではないか。御道の信心が、百十何年経たせて頂いて、なるほど、教祖の神様のご信心から、二代様、三代様とね。本当に、あらゆる修行にお取り組みになられて、そして今日の金光教がありますが。その百十七年の間に、ね。段々、おかげを頂いた教会という教会は、殆んどが、神を信ずる力の強い、しかも、荒修行などをなさってからの事である。そこで、とにかく、あちらの先生は、お願いに行ったら、ほんなら、私が、水ごりをとってお願いをしてやると言うて、まぁそれこそ、夜も眠らんようにして、御祈念をなさったり、水をかぶったり、断食をしたりして、その一人の氏子のためにでも、神様にお願いをしてくださる。だから助かる、ね。けれどもね。それは、いうなら、神を信ずるからの、そこに力が出てくるのです。ね。そこで、ここは、いわば、その表行を全廃した。ここでも、随分皆さんが、様々な荒行をなさいました。私どもも、過去においては致しました。小倉の桂先生がなさったという修行。福岡の吉木先生がなさったと言う修行。久留米の初代が、三井教会の初代がなさったと言う修行は、私は、信者時代にさせて貰うた。御道の教師だから、いや信者だから。それは大きな願いを持っておりますから。人が出来る修行が、私に出来ないはずは無いというので、取り組んだんですけれども。おかげで、ね。いわゆる、神様を信ずる力も、本当に、モリモリするような力も頂くことが出来ましたけれども。ね。その修行を全廃して、もし、そういう修行に取り組むような修行生がおったら、もう破門にするぞと。
この頃から、去年でしたかね。熊本の米村という、女の修行生が入っておりました。どげん言うても、断食をする。とうとう私が、もう、あんたが断食を止めんごとあるならば、もう帰らにゃ出来んと言うて帰しました。と言うほどしにです。言うならば、表行によってのおかげというものはです。それこそ、あの、雲のようなおかげであって、必ず消える。しかも、その結果が良くない。ほんなら、修行が激しかったという教会を見てみるが良い。二代になり、三代になり、益々、衰微していくだけではないか。ね。例えば、ほんなら、この辺で、甘木の教会とか。または、玉水つぁん辺りの所にになってまいりますと、先代が、言うなら、御理解一本で人が助かった。先生方ご自身はです。もう、いよいよ、神様から、信じられるという信心を身に付けておいでられた。本心の玉を磨くことに、改まることに、いよいよ、精進なさった。そこから生まれてくる、生き生きとした御理解、御教えが、信者を救い助けていった。そういう教会は、それこそ、ね。びくともせんでしょうが。それはね、神様を信じてのおかげではなくに、神様から信じられてのおかげだからなのでございます。ね。
けども、やっぱり、今朝からも、私は、そういう、末永先生が言う事を、その聞かせて頂いて、んー、そうだなぁ、ここは暖かいけん、外で、冷たいところで、ね。そればってん、どうじゃろうかなぁ。末永先生なら、あん冷たか風でん、グーグーち寝るじゃろうち思うです。はっははは、そらね、末永さん、実は私もね、今朝から、そういう事を、しきりに考えたんだよと。例えば、これは、そういう、どうぞおかげを頂かせて下さいと言うて、断食をしたり、例えば、水ごりをとったりするのではなくて、ただ、清まることの為に。ただ、生神金光大神を、芯から心から唱えたいばっかりに、断食もする、水行もするのなら良いのじゃなかろうかと、私は、今朝から、実は思うたんだ。それはね、本当に、例えば、どんなに汚れて果てておりましてもね。朝、ほんなら、水ごりなら水ごりをとりますと、身体が清まると同時にね。心も清まったような気がするんです。断食でもさせてもらって、四日、五日という風になってきますとです。もうそれこそ、心は澄みきって、神様へ向かう、すーっとこう入っていくような、何とも言えん、そら断食した者じゃなければ分からんような境地があるんです。ね。だから、そういう境地を頂くことのためならば、水行もまた、言うならば、断食もまた、良かろうかと、私は、しきりに、今朝から思うたんです。けれども、やはり、お願いをさせて頂くと、ね。それはそうだろうけれども。何時の間にか、それが願いのための表行になってきたら、そこからまた崩れる。これはどうでも、表行はいけないという事を、今朝から感じておった事だから。ここで、いわば、暖房の入っていない、向こうの廊下のほうで、寒いところで御祈念をするのも良かろうけれども、それはやっぱり、表行になるんだ。ね。そこで末永先生、例えここが、暖房であろうが、ね。暖かであろうが、そげなこつ言うなら、夏ならどげんなるかい。冷蔵庫の中に入らにゃんごとなる。うっふふ、ふふ、だから、ここで、ね。修行させて貰うて、これは、私が御祈念の姿勢というならばです。もう、それこそ、汽車のレールの中で、御祈念をしておるつもり。何時汽車が、ゴーっと来るやら分からんという様な気持ちで、頭を引っ付けとるなる、畳に頭を付けずに、ここに一寸なっとん、すかしておいておかんと、手に、ちゃんと、もたれ掛かるから、そのまま眠ってしまう。だから、そういう修行をすることのほうが、本当ではなかろうかねと、まぁ言うた事でございます。ね。
もう、いよいよ、表行はいけんです。いわゆる、過去の先生方がです。私共の、言うなら、手続きから言うても、そうです。人の真似の出来んような、血の滲む様な、言うならば、荒行をなさってもです。ここが、先代修行の地と、立て札が如何に立っておりましても、そのおかげで、この教会が、このように隆々と、今日も栄えておるというなら、まだ知らず。そういう事ではない。もう殆んど、絶対、表行で助かった教会は、もう衰微するです。だから、表行で、どんどん助かった。そこで、ほんなら、修行生なんかも出来て、その沢山の教会も出来たという事ですからね。いけないことではないけれども、結果においては、良くないという事が分かったんだから、ね。表行よりも心行せよと仰る。その心行という事は、もう四六時中出来るのが心行ですけれども、けれども、しておっても、しておらなくても、形に現れてくることじゃないですから、ごまかそうと思えば、ごまかせるけれど、ね。こりゃ、いよいよ、本気で心行に取り組まなければいけない。ね。
そういう、例えば、生き方が打ち出されて、ね。此の方、様々な信心の、まぁ今年だけでも、様々なところを通らせて頂きました。ね。今度、御本部で、来年六月から、金光教の革命とでも言われるほどしの斬新なもの。言うならば、御取次ぎ成就信心生活運動というスローガンの下に、二十数年間、それに取り組んできたけれども、教団が一向に栄えなかった。いや、むしろ、衰微してきた。ね。そこで、これは少し、内容を代えなければいけない、考えなければいけないというので、今、あらゆるグループが集まれば、必ず、来年六月からの、如何に変ったらよいか、如何に金光教は改まるべきかという事が、協議がなされて、今度の新聞に、初めて、その発表がなされました。それは、天地書附を基軸にしたところの信心体制というものが打ち出されてまいりました。私は、それを頂いてから、しかし、金光教の信心で、百十何年も経って、今頃、ようやく、天地書附が機軸と言った様な事をいう事が可笑しい様に思うけれども、実際は、それが機軸でなかったという事実でございます。
私共が、こちらに移らせて頂いて、いわゆる、和賀心時代を作るという信心。ね。いわゆる、和賀心と言うのは、天地書附にあるところの和賀心なんです。ね。そういう、和賀心時代を、いよいよ、世界に進め広げていかねばならないという、ささやかな運動が、合楽では展開されて、そして、去年からは、合楽示現活動に参画するという信心に、段々、ならせていただいて、ね。その参画させてもらう運動が、内容的に、いよいよ、いうならば、ここを徹底していけば、完璧の、言うなら、合楽示現活動が出来るだろうというところまで、今日言っております。それは、只今、表行が全廃になった今日、合楽では、大祓信行、もう来年の信心の目標。これは、家族挙げて、例えば、東京と合楽に、子供がおったり、親がおったりするならば、ね。親と子供が、言うなら、親子同盟をして、ね。何時に何巻大祓いを上げる。あんたもそちらで一緒にあげよう。同じ時期に、同じ時にです、大祓いを奏上しよう。しかも、あれば頂きたい、これば貰いたいと言うのでは決してない。ただただ、大祓信行をさせて貰う。ただ無心に、無条件に、五巻でも十巻でも、そうして行くうちに、それこそ、ご信心が離れたくなくなてくるほどしの。そういう事からです、改めて、皆さんが、体験として現れてきた事実はです。宅の神様に、いよいよ、活力が出てきたという事でございます。神様が生き生きとして見えたという事でございます。ね。もう、それこそ、今朝からも、その事を、私は、光昭達夫婦のことを話したんですけれども、今まで、それが出来てなかった。天地書附が、こう床の間にしとる。大黒様もお祭りをしとるけれども、お茶一つ、奉ったこともなかたけれども。大黒様にも、お茶が奉られ、ね。言うならば、天地書附の前には、御神飯がお供えされ、夫婦が、ここを九時、終わらせて頂いたら、席を同じゅうして、二人が、一生懸命、大祓信行に取り組ませて頂く様にならせて頂いたら、もう第一、ほんなら、光昭の所の神様が、生き生きとして見えた。第一にお願いをさせて頂いておると、オイサミを頂くう様になった。次には、家内などは、色々と、お知らせまで頂くようになった。ね。光昭の所の、いわゆる二階のささやかな神様が、いわゆる、活力が出て見えたという事でございます。
これはもう、あの、皆さんの家で体験をなさっておられる。だからもう、佐田さんのところでの、佐田さんのご主人が、今までは、銘々で、ばらばらであったけれども、最近では、ご主人が先唱をなさると、家族中のものが、大祓いの、言うならば、大祓信行が始まる。はぁ素晴らしいだろうと思うです。ね。謡で鍛えてある喉が、素晴らしいですから。もうそら、素晴らしかろうと思うです。もう本当に、一つのリズムが出てきて、そのリズムに乗って、大祓いが奏上される。もうそれこそ、ここはまぁ、今始まったことじゃないですけれども。神様への、その生き生きとしたね、その働きというものは、そらもう本当にすさまじい。もう、オイサミなどは、何時も、もうそれこそ、家中が家鳴りがするようなオイサミを頂かれることがあるそうです。という様にね、自分の所の神様の活力がね。だから、如何に神様も、また、ね。その糧を求めておられるかという事が分かります。お互いのところの神様は、もう、手がなえてござる、足がなえてござる、と言う様なところじゃなかろうか。もう、栄養失調寸前の所ではなかろうかと思うて見にゃいけません。ね。
そこでです、ほんなら、どういう様な信心をさせて頂いたなら、神様が元気付きなさるか。ね。それをです、様々にありましょう。けれども、無条件の、無心に、ただ無心に、大祓い奏上がなされて、五巻十巻と続けられていくうちにです。いうならば、もう、有り難うして、有り難うして、ご神前が離れられないような境地が開けてまいります。そういう氏子の心を、糧となさる神様だという事でございます。神様にも、やはり、糧が要る。私共にも、心の糧が与えられなければなりません様にです。ね。お国には、お国の、やはり、大蔵省は、人間の口を見たようなものでと仰る様に。税金が納まらなかったら、どこの太郎やら、次郎やら分からないようになろうがと、ね。お国が栄えて、初めて、私共国民、一人ひとりの栄があるのだ。そこで、どうぞ、税金が安うなります様にてんなんてん、けちな願いをするな。どうぞ、今年は去年よりも、ね。せめて、百万円でも余計税金が納められるようなおかげを頂かせて下さいと言うて願えと言うのが、今朝の御理解でした。これが金光教的ですよ。ね。もう出来るだけ、ごまかしが出来ますごと。もう、いんちきすることばっかり願う。はぁおかげで、負けちもらってから、こうこなったと言った様な事じゃなくてね。反対でなかったら、神様のほうに通じないです。願いというものはね。そういう、どうぞ身体の健康のおかげを頂かせてという願い、その願いには、必ず、条件がなからにゃいけん。ほらもう、元気になったばっかりで、夫婦喧嘩を毎日、わりわりするごつやるなら、どんこんされん。そぅらもう、腕力に任せてから、ね。例えば、喧嘩するなら、もうそれこそ、元気になさんほうが良かったという事になるじゃないですか。ね。だから、どうぞ元気になりますようにと言うて願う事も、言うならば、あなたにお喜びいただけるような御用が出来ることの為に、健康のおかげを頂かせて下さい。財のおかげも、また、ね。本当に、お役に立てれることの為に儲け出させても下さいと言う願いでなからにゃならん。ちーっとばっかり、儲け出させたら、もうその、二号さん持ったり、要らんこと贅沢をしたりという事になって来る。もう本当に、もう、贅沢ぐらい恐ろしい事はない。
私は、先日、ある、あるというが、安藤さんのご夫婦から聞かせて頂いたんですけれども。ある関係の所の奥さんが、そうな、やり手で、女社長じゃん。ほら、バリバリやらっしゃるそうじゃん。ところが、今度、とうとう、倒産になった。そこに、何十名か女工さん達が居りますげながね。給料ば払わんから、給料取り来てからですね、そん元気もんの、やり手の女社長さんの頭ば、ひん握って、こうこするそうです、おなご達が。べんぶば、ひねったりするそうです、こうこやって。もう私は、自分の行っとったばってん。もう可愛そうで可愛そうで、よう言いきらじゃったち。人間ちゃ、浅ましいです。ほんの、昨日までは、社長さん、社長さんと言うとったのが。もう金が払えんち言うごつなったらです。とにかく、べんぶば握って、こうこやるそうです。そんな笑いごっじゃ、ほんなごつだそうですよ。人間ちゃ、そげん汚いです。だからね、本当に、いよいよ、あるからと言うて、贅沢どんして、そういう結果にどんならんごつしとかにゃいかんでしょうが。だから、この氏子にゃ、幾ら金を持たしても大丈夫という見極めがつかなければ、神様は、くださりゃせんです。ね。ですからね。本当に、やはり、人間が出来なければいけないという事。その人間が出来るという事が、どういう事かと言うと。とりもなおさず、神様のご信用を頂いてという事になるのです。
合楽では、神様を信ずるという事よりも、神様に信じられるという事を焦点にして、信心を進めていく。表行をしたから、水かぶったから、断食をして、おかげを頂いたじゃなくて。改まっておかげを頂いた、お話を頂いた、心が開けてきた、ね。それこそ、大祓信行に家族を挙げて精進させて頂く様になって、心が、有り難うして有り難うしてと言う、その心で、願いもすれば、お詫びもするという事になったら、必ず、神様が、聞き届けて下さらない筈がないんだ。もう来年の信心の焦点というか、目標と言うのは、宅の神様の、銘々の所の神様のね、いうならば、活力を増してくださることの為に信心修行をさせて貰う。ここのお広前では、何時も、皆さんが御理解を頂いておりますから。ここで大祓信行などされてもらうと困る訳です。だから、ここでは、朝昼晩の御祈念の時だけであって、自分の家に帰って、朝晩の御祈念の時に、どうでも、親子夫婦、兄弟、ね。揃うて、しかも、時を同じゅうして、さぁ御祈念ぞと、テレビでん、ぴしゃっと切るくらいな気持ちでです。十年信心を続けてごらん。それこそ、吾ながら、わが心が拝めれるような信心は、もう請け合いです。ね。そこにです、例えば、大祓信行という事が言い出される時に、神様にお願いさせて頂きましたら。心を清めることと、信心辛抱力を作ることに、素晴らしいおかげが受けられると言う事を頂いた。心が清まってくるんです。同時にです、たまにはね、それこそ、テレビのほうが面白か時のほうがある訳です。もう今日だん、ご無礼使用かという様な時もあるけれども。そこを辛抱し抜かせて頂いて十年間。もうその頃には、止めよと言われても止められん位なです、有難いものが、心のなかに開けてくる。家庭には、必ずおかげが、新たなおかげが展開してくることは間違いないのです。ね。
今年は、私、色々考えさせて頂きますのに、そういう節年を、これは、私自身の事ですけれども、通り抜かせて頂いて、そこから、そういう芽が出てきだしたという事でございます。その芽が、いよいよ、ね。次のまた、花になり、実りになるようなおかげを頂かせていただく為に、いうならば、合楽では、みなさんがです。もう隅々に至るまで、合楽にご縁を頂いて居る人達が全部、ね。その心行に取り組もう。心の行に取り組もう。同時に、その心行の選定になるところの、有難い心を頂かせていただく事のためにです。いよいよ、大祓信行に、これを徹底していくという事に、来年の信心を絞りたい。そういう願いをさせて頂きたいと思うております。ね。今年は、皆さん、一人ひとりの上に、もう今日も、沢山お礼参拝がございましたが。どのお話を頂いても、本当に、ここに座って、お礼を申させて頂いておると、涙が自ずとこぼれるような、お礼のお届けが、今日は続いておりました。ね。そういう、いうなら、おかげを頂いて、今年も、本当に、私はもう、そりゃ一月ばっかり前から、こげなことじゃ、今度正月は迎えられんと、もう本当に、ぎりぎりの所を、日々通っておられる方達がです。もう殆んど、おかげを頂きました。私が、まぁだ心にかかっておるに三人が、まぁだ、お礼に出てきておりませんけれども。まぁだ、十二時までには、お礼に出てくることだろうと思います。と言う様にです。本当に、今年も、いわば、御礼のお年であった、そして、本当に、出来なかったことのお詫びをする以外にはないと言う有難い、言うならば、詫びれば許してやると仰せられる。許され給うというところまで、いわば、あと何時間の間に、お互いの心を作らせて頂いて、そして、めでたいというか、有難い、明日のお正月、いわゆる、明日の元旦祭に臨ませて頂きたいと思うのでございます。どうぞ。